退蔵院について

退蔵院の成り立ち、退蔵院にまつわる宮本武蔵、瓢鮎図のご紹介。

臨済宗大本山 妙心寺 退蔵院

_妙心寺について

インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。
1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっています。
お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。
開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。
自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。

_退蔵院の歴史

今から600年ほど前(1404年)、室町時代の応永年間に当時の京洛に居を構えた波多野出雲守重通が高徳のきこえ高い妙心寺第3世をつとめる無因宗因禅師への深い帰依によって、無因宗因禅師を開山として建立されました。これが退蔵院のはじまりです。
そのころ妙心寺は足利義満の弾圧で名を竜雲寺と変えられ、 関山一派の人々も祖塔を去る悲運に見舞われました。無因宗因禅師は高徳を惜しまれて大徳寺へとの誘いがありましたが、固く辞して西宮の海清寺に隠棲し、ついに時の有力者たちに終生近寄ることがありませんでした。
退蔵院は応仁の乱で妙心寺とともに炎上しましたが、1597年に亀年禅師によって再建され、今に至ります。

_退蔵院の名前の由来

「退蔵」という言葉には、「価値あるものをしまっておく」という意味があるように、陰徳(人に知られないようにして良い行いをする)を積み重ね、それを前面に打ち出すのではなく、内に秘めながら布教していくということを示しています。

宮本武蔵と愚堂東寔

宮本武蔵は妙心寺の住持になられた愚堂東寔禅師のもとへ参禅に足を運びました。愚堂東寔は妙心寺で三度住職をお勤めになられましたが、武蔵が教えを求めに上洛したときに、退蔵院所蔵の瓢鮎図を目にしたのではないかと伝わっています。
武蔵自作とされる刀剣の鍔が岡山県美作の「宮本武蔵資料館」に現存しておりますが、それには「瓢箪と鯰」がくっきりとデザインされています。

_愚堂東寔の年表

1577年4月8日
岐阜県伊自良村大森に生まれる。父は伊藤紀内、母は斎藤家家臣の女と異説あり
1591年15才
伊自良東光寺において(瑞雲和尚)出家する。
1595年19才
諸方、師を求め、行雲流水の行脚の旅に出る。
1598年22才
宇都宮興禅寺物外和尚に参じる。
1605年29才の冬
播州赤穂三友寺南是和尚に参じる。愚堂無心の境地に入る。(宮本武蔵参禅に足を運ぶ)
1612年36才
庸山和尚、愚堂の号を与え印可を渡し、妙心寺につく。
1621年45才
美濃に行き、瑞厳寺・慈溪・正伝寺に住す。
1624年48才
江戸に行き春日局の帰依を受く。
1628年52才
妙心寺に二度住す。
1642年66才
美濃大仙寺に帰る。
1643年67才
妙心寺に三度住す。
1645年4月19日
宮本武蔵62才で歿する。(64才の説もあり)
1645年12月11日
沢庵和尚示寂(73才)
1648年72才
狩野探幽が愚堂の頂相を描く。
1654年78才
7月、黄檗隠元が来朝する。
1659年83才
妙心寺開山300年遠忌予修す。
1671年85才
京都山科華山寺にて10月示寂

瓢鮎図

瓢鮎図

山水画の始祖で画僧であった如拙が1415年に描いた作品で、足利義持の命により心血注いで描き、現存する彼の作品の中で最高傑作といわれています。また、日本最古の水墨画といわれ、国宝に指定されています。退蔵院では、模本を展示中です。
絵に何が描かれているかというと、「瓢箪でどうすれば鯰が捕らえられるか?」という禅の問答です。「公案」を表すもので相国寺の僧「如拙」によって描かれました。後に周文→雪舟まで筆が渡ることになり、現存する彼の作品では最も傑出したものです。名前の由来は「大巧如拙(タイコウセツナルガゴトシ)」の語からとったもので、「最も大巧(上手)であろうとするなら稚拙(下手)であるのがよい。」とされています。
「ただでさえ捕まえにくいなまずを、こともあろうに瓢箪で捕まえようとする。」この矛盾をどう解決するか、将軍義持は当時の京都五山の禅僧31人に賛詩を書かせました。瓢鮎図が特に価値が高いと言われる所以はこの賛詩が寄せられているからだと言われます。高僧連が頭をひねって回答を連ねた様子は正に壮観です。そのいくつかを紹介しましょう。
『瓢箪で鮎を押さえつけるとは、なかなかうまいやり方だ。もっとうまくやろうなら、瓢箪に油をぬっておくがよい』(周宗)
『瓢箪でおさえた鮎でもって、吸い物を作ろう。ご飯がなけりゃ、砂でもすくって炊こうではないか。』(梵芳)
凡人には理解し難い回答ですが、難問題であったと言われています。
この瓢鮎図は、退蔵院に伝えられる宝物のうちで一番重要な物で、室町時代の漢画の代表的名品として知られています。さて、本図は題詞にも記されているように、口の小さな瓢箪でぬるぬるとしたなまずをどう捕らえるかという禅特有の意味深長な公案を画因とする禅機画です。ここに「鮎」とあるのは「なまず」のことで、普通「なまず」は「鯰」という字を書きますが、この鯰は国字(日本の文字)のため、中国由来の「鮎」と表記されています。
このような画因による本図では、俗塵を絶した閑寂な野辺の一角、芦の生える川の畔に、ぼさぼさ頭の農夫が両手で瓢箪を押さえて立ち、水中に泳ぐ魚を捕らえんとする光景が画面中央に見られます。なおその岸辺には数株の竹があり、背景遠くには山陰を浮かび上がらせていますが、全体としての図様は極めて簡素です。しかし描写は意外に精密で、その筆致は細かいけれど、つよい弾力をもち宋元画の技法をよく消化しています。そしてこの作家独特の作風を生み出し、なかなか格調の高い作品をつくっています。その作風上の特色は、特にこの世のものとは思えない人物の表現やその人物をつつむ近景の動的な描写などがうかがわれますが、美術史的に興味を引く一つの重要な点は、それが禅機画でありながら、全体としての構図が山水画的な特色を備え、室町時代の漢画である山水画の早き例とも見られることです。このような本図の筆者如拙は、詳しい経歴は明らかではありませんが、京都・相国寺の画僧として、室町時代初頭に活躍した人物だと言われています。本図は、彼の遺作としてもっとも信ずべき確証をもちその歴史的価値は極めて大きいものでしょう。

僧侶の紹介

  • 退蔵院 住職 松山 英照 (まつやま えいしょう)

    _退蔵院住職

    松山 英照 まつやま えいしょう

    1948年岐阜県生まれ。駒澤大学文学部卒。
    静岡県三島市・龍澤寺専門道場にて修行。

  • 退蔵院 副住職 松山 大耕 (まつやま だいこう)

    _退蔵院副住職

    松山 大耕 まつやま だいこう

    1978年京都市生まれ。
    2003年東京大学大学院農学生命科学研究科修了。
    埼玉県新座市・平林寺専門道場にて3年半の修行生活を送った後、2006年より退蔵院副住職。
    2009年5月、政府観光庁Visit Japan 大使。2011年より京都市「京都観光おもてなし大使」。
    2011年、日本の禅宗を代表しヴァチカンにて前ローマ教皇に謁見し、世界のさまざまな宗教家・リーダーと交流。
    2013年6月、ダライ・ラマ14世ご後援のもと、ヨーロッパのルクセンブルグにて諸宗教間交流駅伝InterFaithマラソンに参加。
    2014年には世界経済フォーラム(ダボス会議)に出席するなど、世界を股にかけ、宗教の垣根を越えて活動中。

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